もうすぐ、七夕です。小学校の低学年の折は、笹を買ってきてもらい、飾り付けをし、短冊に願いごとを書きました。七夕が終わると、家族で近くの海に出かけ、笹を海に流しました。それから、私自身は、七夕の短冊を長いこと書くことも見ることもありませんでした。
3人の子どもの一番下(次男)が、出生前に母体の検査で腎臓に異常があるということで、光明池の府立母子センターで出産することになりました。七夕前の7月1日に生まれました。生後間もなく、まだ、名前も決まっていなかった次男に宛てた妻の短冊が病室の廊下に飾ってありました。
そのことをもとに、教頭をしていた時(12年前)、一人ひとりの命の大切さを考える授業、『七夕の短冊』をさせてもらった折に書いたものです。
『七夕の短冊』
【出産】
平成4年7月1日午後11時57分。大阪府立母子医療センターの分娩室から、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。我が家にとって3人目の子どもは、真夜中に家から遠く離れた病院で生まれた。家の近くの病院で生む予定であったが、6ヶ月頃の検査で、赤ん坊の腎臓に異常があることが発見され、その病院を紹介された。
翌日、赤ん坊に会いに病院に行った。仕事があるので、10分ほどして帰ろうとすると、妻が、「明日、お医者さんがお父さんに話があるそうやで。何時頃これる。」と聞かれた。明日も、今日と同じ頃に来ることを伝えて、仕事にもどりました。
【ダウン症】
次の日、きっと生まれる前から言われていた手術のことかなと思い、病院に向かった。病院に着くと、すぐに、ある診察室に呼ばれた。産婦人科の医師、外科の医師、小児科の医師、それに看護師さんが4名ほど、入ってきた。
自己紹介の後、あるお医者さんが突然質問を始めた
「上のお子さんと、何かちがいは感じませんか?」
(いったい何を聞いてくるんや)と思った。
「えっ…」と、返事にもならない返事をした。
「実は、正確には血液の検査をしないと分からないのですが、おそらくダウン症という障がい児だと思います。」
そこからは、「障がい児」という言葉だけが、頭にこびりつき、何を言われ何をしゃべったかほとんど覚えていません。ただ、腎臓の病気のため、できるだけ早く手術をする必要があると言われた。
最後に、
「このことを、今、奥さんに言いますか?」と、問われ、
「ようやく無事に生まれてきたんです。今は、おいといてください。」というのが、やっとだった。
呆然として妻と赤ん坊のいる病室にもどった。
「何の話やったん。」と聞かれ、
うろたえながら
「う…ん。手術を早くしないといけないけど、手術ができる体力がつくまで、1ヶ月か2ヶ月かかる。」いう話やった、といってごまかした。それ以上、しゃべると涙があふれそうだったので、
「仕事あるから、帰るわ。」と言って、病室を出た。
【七夕の短冊】
廊下を数メートル歩くと、七夕飾りの笹が置いてあった。何気なく目を止めた短冊に次のように書いてあった。
(健康で元気な子どもに育つように。 ○○ちゃんへ かよこ)
「かよこ」は、妻の名前であった。
「○○ちゃん」は、まだ、名前の付いていない息子、赤ん坊であった。「健康で元気な…」と、心の中で、その言葉を繰り返した時、押さえていた涙があふれ出し、その場に立ち止まることが、それ以上できませんでした。
【絶望感】
まだ名前のついていない我が子は、(腎臓の病気がある)その上、(ダウン症という障がいがある)、そのことで、まるで崖から突き落とされたような絶望感しか、その時は感じれませんでした。
職場で、知り合いから
「赤ちゃんおめでとう」と言われても
「ありがとう」とは言葉を返すものの、いつも(ダウン症)という言葉が、頭から離れず素直に感謝の気持ちを持つことができませんでした。
医者から言われた「1ヶ月後に検査の結果がわかります。」という言葉が頭から離れず、、毎晩、「ダウン症ではありませんでした」という夢を見ました。心の奥底では(ダウン症としての我が息子)を、否定していたのだと思います。
【名前・康平】
2・3日後、病院に行った時、
「名前考えた」と聞かれ
「『康平』か『康介』って、考えてん。腎臓の病気があるから健康を願って、健康の「康」。そして、『平』とか『介』とか、親しみがあって、みんなにかわいがってもらえそうやから」
「どっちもいい名前やん。お父さん決めて」と言われ、
「じゃ、『康平』にしよう。ええか」
「いいよ」と、
『康平』に決まった。
その時は、妻にはまだ話していませんでしたが、ダウン症という障がいがあることで、差別などないようにという願いから「平等」という意味の「平」をつけたのです。
【話があるんや】
1ヶ月後、医者から電話がかかってきました。
「検査の結果、ダウン症でした。1週間後に、奥さんと子どもさんとそろって来て下さい。」
「ところで、ダウン症のことは、お父さんからお母さんにお話しされますか?医者の私から言いましょうか?」と聞かれ、
「私の子どもですから、私から言います。」と答えました。
その晩、仕事から帰ってきて妻に話そうとしたが言い出せませんでした。次の日も,そして次の日も。とうとう、明日、妻と息子を連れて病院に行く前日になりました。
10時頃、仕事から家に帰った。
「お帰りなさい」の妻の声はしたが、赤ん坊と妻はすでにふとんに入っていました。風呂と食事を済ませ、11時頃私もふとんに入った。妻もまだ寝付いてなかった。
「おやすみ」と一言しゃべったが、また、「ダウン症」のことは、言い出せなかった。
(言わなければ)
(言わなければ)と思うが、1時間2時間と時間は過ぎ、腕時計を見ると夜中の2時を過ぎていた。妻も寝付いてなかった。何かを感じていたのだろう。
「お母さん話があるんや」
「何」
「実は、康平のことや。」
「康平な、しっかり聞いてや。」
「…………」
「康平な、ダウン症なんや」
「………」
「私も何かあるんかなって思っててん…」と、妻はしゃべった後、涙があふれ出し、その後は声にならなかった。二人ともしばらく泣き続けた。そして、
「お父さん、この子しゃべれるようになるの?歩けるようになるの?」と、声をふりしぼるように聞いてきました。私も泣きながらでしたが、「歩けようが歩けまいが、しゃべれようが、しゃべれまいが、ぼくら夫婦の子どもや。兄ちゃん姉ちゃんの弟や。じいちゃんばあちゃんの孫や。どんなことがあっても助け合って、一生懸命育てていこう。」その後もいろいろと話をしたが、何を話したか、一つも覚えていません。しかし、心の奥にあった重たい荷物を下ろしたみたいに、その日はぐっすり寝ることができました。
【成長】
それから、両親(おじいちゃん・おばあちゃん)にも話をし、理解してもらうことができました。私の職場でも知り合いにも、私から積極的に息子が「ダウン症」であることを、そして、名前「康平」の意味などを話していきました。それとともに、自分の息子を「ダウン症」ということだけで見ていた自分が恥ずかしくなりました。そして、一日一日と息子「康平」が我が子としてかわいく大切な存在になっていきました。
今、康平は高校1年生(*現在28歳)となり、私の家族の大切な一員であります。また、仲間からもご近所さんからも愛されてるキャラで、人気者でもあります。
【一番言いたくないこと、一番知られたくないことが…】
ある時、いろんな差別や苦労の中を生き抜いてこられた方のお話を聞きました。なかなか言いにくいことをつらいことを、苦しかったこと悔しかったことを、また、本当にうれしかったこと、いろんな話をされました。そして、最後に次のようにしめくくられました。
「今日、私が話したことは、本当は言いたくない事なんです。知られたくないことなんです。でも、人間って一番言いたくないことが一番言いたいこと、一番知られたくないことが一番知ってほしいことなんです。」と。
今、思います。なぜ、医者から「ダウン症かも」と言われて、毎晩、夢にうなされていたのかと。本当は「ダウン症」であると言うことは、言いにくいことであったが、本当は言いたかった。みんなにわかってほしかったんだと。
【生まれてきてくれてありがとう】
そして、今は、次のように言いたい。
「康平、生まれてきてくれて、ありがとう。」
そして、今日、お話を聞いてくれた人にも言いたい。
「私の話を聞いてくれてありがとう。」
子どもの幸せを願わない親はいません。勉強も、○○も…。でも、最も大切なこと。親と子が互いに思いやり、信頼という絆で結ばれることではないでしょうか?明日は、七夕です。保護者の皆さん、どんな願いを託されますか?親子で、願いごとを話し合ってみてはどうでしょうか?